須留岐山の歴史あれこれ

但馬富士と呼ばれる高さ449,6mの須留岐山は、但馬を北と南に二分する位置にあり、山頂には城跡があるなど軍事的に重要な場所でした。

天候が良ければ360度のパノラマを楽しむことが出来ます。

須留岐山城は円山川右岸、浅間集落北側、須留岐山の山頂から中腹にかけて所在した城郭です。現在の浅間寺は須留岐山の南麓に位置し、標高90メートル地点にあります。

須留岐山城は浅間寺背後の山腹尾根に階段状に曲輪群を構築し、山頂に「詰城」を配置した城郭でした。一般的には尾根筋を城郭化する場合が多いが、須留岐山城の場合は、山麓の高台に寺院を構え、尾根中腹と山頂を城郭化するという特異性があった。浅間寺は戦国期まで、但馬守護山名氏や八木氏など国人衆の支援をうけて繁栄しました。浅間地区には須留岐山城の他に松浦氏・佐々木氏に関わる2つの城、浅間小城・浅間城があり須留岐山城は在地領主とは関係なく、浅間寺の城郭化を図ったもので、浅間寺自体が城郭化の主体と考えられます。新着山寺ニュースにも載せてますが、須留岐山から西方向700メートルにある進美寺山標高361メートル付近に立地する進美寺城の在り方とよく似ています。進美寺山にもお寺があります。

 今年4月に山頂に登りましたが本当に360度のパノラマでした。城があった場所だけに直登はとてもキツイです。足元も滑りやすいので靴の底がしっかりした物が良いです。浅間寺の境内や「コロコロの水辺の庭」を散策しながら山頂を目指すのもこれからの時期良いかもしれません。あまり高くない山でも山ですからくれぐれも気を付けて登って下さい。

 

 

寺の歴史

[名称] 須留岐山(するぎさん)浅間寺(せんげんじ)        {通称}あさまでら

[開山] 行基

[創建年] 天平2年(730年)

[御本尊] 薬師如来坐像

[本尊真言] おんころころせんだりまとうぎそわか

 

この寺は聖武天皇の勅願時として天平2年(730年)行基菩薩により南都六宗の法相宗として創建されました。お大師様(僧空海)が高野山お開きに併せ真言宗に改宗し、今日に至っております。ご本尊様は薬師如来です。

 

 

現住職、35世小松原雅康。

今年の春から大学生になるお孫さんが小学生の頃に描いた

現住職です。

写真よりも本来の住職の雰囲気がよく出ているので使わせていただきました。

寺宝・文化財

・浅間寺縁起一巻

・薬師如来坐像(平安時代後期。藤原文化による彫刻)

・行基菩薩坐像(日本最古。九九七年)

・日光・月光菩薩立像

・十二神将像(平安時代後期作)

・本堂蟇股(かえるまた)

「二十四孝」彫刻

 

高さ110cm寄木造りで、左手に薬壺を持ち、穏やかな安定した姿勢の中にも表情に

やや厳しさが感じられます。着衣を朱色で彩色しているなど、古いもの手法をですが、頭部の螺髪は細かく衣の彫りも浅いことから、平安時代後期の藤原文化による彫刻です。

左側が本堂で元禄十五年(1702)の建立です。内陣と外陣に区切られた梁間三間、桁行四間の本堂は、肘木組みや蛙股など、

鎌倉時代の巧みな建築様式を伝えています。

右側は日本最古の行基菩薩座像です。写実的な造形が特徴です。年輪年代の計測により、997年(心材部)と判明。外周部を削除していることから、製作年代は十一世紀前半と考えられています。

 

 

薬師如来様が鎮座されている本堂の蛙股は、二十四孝の物語が彫刻されています。

古く中国の故事に残る二十四人の親孝行物語です。

この物語を「こぼちゃん孝考(行)シリーズ」として住職が執筆し、2005年朝日新聞に土曜日ごと記載されました。

朝日新聞社の許可を得て、記事がパンフレットになっています。

祭礼・年中行事

1月 お年始詣・年頭参り 3月 春彼岸・祖師講檀家総会     4月29日 花祭り 6月  高野山団参

7月 薬師祭り(毎年第一日曜日にあります。今年は4日です)     

8月 棚経・お寺参り・お施餓鬼会   一年で一番忙しい月です

9月 秋彼岸

12月31日  お焚き上げ・除夜の鐘